守田敏也さん帰国後初講演録シリーズ 〜第2回〜

【トルコ政府によるデモ隊の弾圧に抗議して 】
3月11日にシノップの街で講演をしたのですが、そこで知ったのは、トルコ政府が民衆運動に激しい弾圧を行ってきたことでした。どう激しいのかというと、何かあるとすぐデモ隊にガス銃を撃ち込むのです。ガス銃の乱れ撃ちがされるのです。
いつだったかは正確には覚えていないのですが、数ヶ月前ぐらいか、イスタンブールの町の中の公園かなにかが公共の広場として使われていたことに対して、政府が何かの構造物を作って、民衆の集会が開けないようにしようとしたことがありました。これに反対する人々がその場に多集まり、最終的には立てこもって、警官隊と攻防戦になったのですね。
トルコは、インターネットの規制も厳しいのです。Twitterが禁止になっていました。(注、Twitterは4月初めに裁判所の勧告を受けて解禁された)どうもYOUTUBEも禁止されているようです。そういう状況で、この攻防の時も携帯電話なんかもカットされてしまいました。そんな中でもFacebookだけは生きていたらしいのですが、実際にドイツの側でトルコの情報をリアルタイムでキャッチしていた人に聞いたのですけれども、凄かったそうです。「今、どこどこ方面からガス銃の集中攻撃を受けていて、友達が何人倒れた。ここに救急車を回してくれ」とか言う情報がFacebookでブワーッと上がっていたのだそうです。
そういう騒乱状態の中で、たまたまそこに買い物に来ていた10歳の男の子が、ガス銃の直撃弾を受けたのです。頭に当たって、昏睡状態になって、結局その子は亡くなってしまった。それがちょうど僕が行ったときだったのです。
だから、講演させていただいた後に、街の中心部で抗議のデモがあるというので、その中に出て行きました。若者がたくさん集まっていて「虐殺を許すな」と叫びながら凛々しく歩くのです。もちろん僕も参加しました。
なんというか、トルコのデモはとても熱い。政府の強権的な弾圧がある中でも、民衆運動がいろんな形で行われていて、民主主義的な権利を守ろうと頑張っている。その中に僕も参加させていただいて一緒に街を歩いたわけですが、心が昂ぶりましたね。

【腹痛を抱えて長距離移動に次ぐ移動。最後はベルリンの病院へ】

それから翌日に、イズミールというエーゲ海沿いのところに移動したのですけれど、「ちょっと移動が大変なんだ」と言われました。どう大変なのと聞くと「まず3時間バスで移動するのだよね」と。お腹痛いですからね、3時間かけっこうつらいな…と思うと、実際には3時間ではなくて、もうひとつのバスにさらに1時間乗ってですね、やっとたどり着いたのがサムソンという空港なのです。ではこの空港からイズミールに行くのかと思ったら、「いやいや、一回では行けない。まずアンカラに飛んでそれからイズミールに行く」とのこと。2回のフライトです。その挙句についたイズミール空港からまたタクシーで30分ぐらい走って、ホテルに着いたのは夜中の2時半でした。
そういう状況の中で僕は回復する間が取れなくて、体がどんどん悪くなってしまいました。実は僕は前立腺肥大症というものをかかえています。前立腺というのは膀胱の下にあるのですが、それが肥大すると尿が出にくくなってしまいます。そういう病気を持っているので、いつも漢方薬を使ったりして旅の間、ずっと気をつけています。
この時は尿は出ていたので、自分でそこがどんどん悪くなっていってることが分かりませんでした。でもだんだん排出が悪くなっていって、腎臓が悲鳴をあげ、それが腹痛になっていきました。しかし僕には便秘の腹痛なんだか、他の痛みなんだかわからない状況で、イズミールからデュッセルドルフに飛び、ドイツに戻って、ヘルフォートとベルリンの街で、さらに2つ講演をこなしました。
ベルリンでは「ドイツ放射線防護協会」会長のセバスチャン・ プフルークバイルさん という方がずっと僕のケアをしてくれました。今回僕にとって運が良かったのは、トルコでの過程を含めて、ずっとお医者さんが身近にいたことです。なぜかというと、「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」という組織があって、そのドイツ支部の方たちと一緒だったからです。僕の横には常に医師がいて、ケアしてもらえました。そんな中で、僕はトルコに何とも言えない強い印象を残して帰ってきたのではないかと思います。僕はとにかく、「腹が痛かろうが痛くなかろうが講演はやるよ」と話したのですけれども、そしたらトルコ人の医師がこう言うのです。「それは分かっている。お前は日本のサムライだ。お前は確かにやり遂げるだろう。だけど自分は医師だ。目の前で痛がってるものがいたらそれを見てほっとくわけにはいかない。それが自分の人生なのだ。だからこの薬を飲め」と。
最終的には3月18日にベルリンの病院に連れて行っていただきました。最初、セバスチャンのお連れ合いのクリスティーナさんの勤務している病院を手配してもらい、そこから泌尿器科の専門外来がある病院に移りました。そこもね、なんとも印象深いのですよ。その病院は、ベルリン大空襲の中で唯一焼け残った教会を改装した病院なのです。なおかつ、その教会は戦中にずっとユダヤ人をかくまっていたのだそうです。
その由緒ある病院で、カテーテルという管を、直接膀胱に通し、尿を強制排出してもらいました。それでなんとか腎臓を復活させたのです。そういう状況でしかも最後の5日間は吐き気でものが食べられなくなってしまって、日本に帰ってくるのが大変でした。
プフルークバイル博士に数日間、全面的に世話になってしまって、帰国の際にも、ベルリン空港まで博士が僕の荷物を持ってくれて、車で連れて行ってくれました。それでどうにか飛行機に乗ってベルリンからハブ空港のフランクフルトに行き、そこから関空を経て帰って来たのですけども、一番、辛かったのはフランクフルト空港でしたね。あの空港は大きいのですよ。関空の3倍くらいあるのではないですかね。その中をごく一部しかシャトルが走っていなくて、あとは歩くのです。僕は5日間何も食べていなかったので歩けなくて、関空行の便に移動するまで3時間ぐらいかかってしまいました。
僕は自分がこの旅の最後の方で、多分、もたなくなるだろうと思って、最後の一週間だけ連れ合いに来てもらっていました。ベルリン観光もしないで、ホテルで献身的に看病してくれたのですが、間の悪いことに彼女も途中で転んでしまって、帰ってきてから分かったのですが、足を剥離骨折していました。その彼女に僕は荷物を全部持ってもらい、その横を10m歩いて座り、また歩くという感じで、フランクフルト空港の長い長いターミナルビルの中を移動したのです。
そんなわけで、日本に帰ってきてからすぐにメールが出せなかったのですが、それで僕の重病説が流れてしまいました。そんな重病というほどではないのですが、これだけいろいろ話してしまっているので明らかにすると、前立腺肥大症ともうこのまま共存していくのは無理だと判断して、肥大部分を切除する手術を受けることにしました。その手術に一週間から10日くらいかかることになりますが、それを4月末ぐらいに受けるつもりです。そうして身体を鍛え直して、もう一度こういうふうなタフな展開にチャレンジし、その中でも元気に旅ができるようにしなくてはととつくづく感じました。それが僕の身体のことに関する顛末です。

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続いて、第3回

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